平塚駅周辺の企業専用線(平塚〜相模石油〜日産車体工機〜横浜ゴム製造)
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平塚駅の東京寄りの踏切。 一番手前の線路が専用線の線路。 |
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踏切上から専用線を望む。 この先、JR東日本の保線基地までの連絡線として 一部転用されている。 |
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保線基地です。 専用線跡は奥に見えます。 しかし、もう線路はありません。 |
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保線基地の先は細長い駐車場になっています。 足元のバラストは専用線のものでしょうか。 |
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草生したカーブする専用線跡です。 このカーブする部分は東海道本線の下り電車から も見ることができます。 |
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東海道本線の下を通る専用線跡です。 未舗装の遊歩道に転用されています。 |
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国道1号の下を通ります。ここは道路になっています。 鉄道らしい箱型トンネルになっています。 |
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相模石油線と日産車体・横浜ゴム製造線との分岐点。 相模石油線は手前方向に進みますが、日産車体・ 横浜ゴム製造線は、右方向に進みます。 |
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まずは相模石油線跡です。土手の上から見ています。 現在は、馬入ふれあい公園の歩道になっています。 |
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続いて日産車体・横浜ゴム製造線を辿ります。 専用線跡が分かるのはこの場所からで、先程の 分岐点からこの場所までの間は宅地化で消滅して いました。 細長い駐車場に転用されています。 |
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国道129号の踏切跡です。 手前から斜めに横断し、中央の日産車体工場へ 向かっていました。 その痕跡は全くありません。 |
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市道駅前通りに架かる八幡第1歩道橋から日産車体 工場を見下ろす。 立体駐車場になっている場所にはかつてヤードが あったらしいです。 |
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ここは横浜ゴム製造線跡になります。 市道駅前通りに架かる八幡第1歩道橋の真下を 踏切で渡っていました。 こちらも痕跡は全くありません。 |
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市道駅前通りの先は、文化公園になります。 この周辺は、かつて海軍火薬廠という広大な基地 がありました。 専用線跡は、文化公園通りに転用されていました。 |
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公園内に車止めのモニュントがありました。 専用線を示すものかどうかは分かりませんでしたが。 |
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こちらは、かつて御殿場線で活躍した機関車です。 専用線とは全く関係がありませんが、なぜこんな 場所に保存されているのでしょうか。 |
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公園の先は、普通の道路になっています。 いかにも鉄道らしい雰囲気があります。 |
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道路の先には、相模緑地という広場があります。 ちょうどこの場所が専用線跡になります。 この先に横浜ゴム工場がありますが、専用線跡は 整備によって消滅しています。 手前まで来て惜しいですが、ここで探索は終わりです。 |
| 平塚駅から各企業へと続いていた専用線。元々は、相模(馬入)川から砂利を採取する為の砂利取線として敷設されたものが、戦争勃発による軍需設備の進出により専用線へと変化、更に増設されていった。戦時中は、軍事工場が密集し、更に、海軍火薬廠という大きな基地も構えていた。1945年/昭和20年に敗戦となった後は、これらの軍需工場や火薬廠は平和産業へ転換していき、軍需線も再び各企業への専用線として使用されることになる。この専用線も、かつての軍需線からの転用で後に付け替えられたものである。元々は平塚駅の西側(小田原寄り)で分岐し、火薬廠内までほぼ直線で敷設されていたが、戦後、市街地復興に際して撤去された。専用線は、まず日産車体工機が開通させ、その後、横浜ゴム製造、相模石油が続いて接続し、3社共有ルートとなる。やがて車社会が到来し、市街地を通る車が増えると、平面交差によって渋滞の懸念が生まれることから廃止される運命となり、横浜ゴム製造線は1972年/昭和47年頃に、日産車体工機線は昭和50年代にそれぞれ廃止される。残された相模石油線は、その後も使用され続けたが、1996年/平成8年に油槽所廃止に伴いそれらの設備とともに全て撤去される。これによって全ての専用線が消滅した。現在、専用線跡は、一部で路盤跡が伺えるが、宅地化や公園造成で徐々に姿を消しているようである。平塚駅付近は、まだいくつも線路があって当時の名残が見られる。東京寄りにJR東日本の保線基地があるが、そこへの連絡線として専用線の一部が転用されている。その先、東海道本線の下をくぐるところには、草生したカーブする路盤跡が残り、これは東海道本線下り電車からも見ることができる。相模石油線は、馬入ふれあい公園の歩道に変わった。日産車体工機・横浜ゴム製造線は、かつてはそれらを示す築堤が残っていたが、宅地化によって消滅したようで現在は見られない。国道129号、市道駅前通りを渡っていた踏切も完全に消滅していた。文化公園となった場所は、文化公園通りとして利用されている。その先、相模緑地という広場までが専用線跡を辿ることができる場所である。横浜ゴム製造はその先だが、整備によって辿ることは不可能だった。かつての専用線の記憶は時代の流れと共に薄れていく運命のようだが、日産車体工機と横浜ゴム製造は現在も存在しているため、どこか片隅にでも留められているかも知れない。 |